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頂点から一気に破滅した長屋王

720年に藤原不比等が没し、翌年に長屋王が朝堂のトップに立ち(右大臣)ます。長屋王の父は天武天皇の長男である高市皇子で、持統天皇の治世では太政大臣を務めています。母親が皇親ではなかったので皇位には就けませんでしたが、朝堂の重鎮として信頼を得ていました。

その息子ですし、天武の皇孫に当たるわけですから、不比等亡き後の政治の中心になることには、周囲の納得も十分にあったことでしょう。また、母親は天智天皇の皇女(御名部皇女)であり、元明天皇の同母姉でもありましたから血筋も抜群です。もちろんその実力も、抜きんでて優れたものだったのでしょう。

近年長屋王の屋敷跡が発掘によって明らかになり、膨大な木簡が見つかり、その中に「長Photo_2 屋親王」と記したものが多数ありました。女帝である元正天皇に代わって、政治分野を総覧したものと考えられます。見事なタッグマッチ、しかし不比等の子である藤原四兄弟や、首皇子の后である光明子にとってはどう映っていたのでしょうか。

ちなみに藤原四兄弟とは、不比等の子である武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂のことで、上の3人が同母の兄弟です。また首皇子の母・宮子は異母姉、光明子は異母妹になります。

724年、ようやく首皇子が聖武天皇として即位します。同時に長屋王は左大臣となり、名実ともに朝堂のトップに君臨します。この頃から長屋王と、藤原四兄弟の対立が次第に表面化してきます。しかし、皇親系の支持は絶大で長屋王はますます権力を強めます。かなり強権的であったのかもしれません。

そしてついに藤原四兄弟の逆襲が始まります。それが歴史的には、長屋王の変と呼ばれる政変です。詳細は書きませんが、きっかけは聖武と光明子の間に生まれた基皇子が、数え年2歳で急死してしまったことです。基皇子は生まれてすぐに皇太子となっていますが、これも史上初めてのことでした。

その死をめぐって、長屋王が左道により呪詛したと密告され、翌日には王を始め妻子が自裁して幕を閉じるのです。果たして誣告であったのかどうかはともかく、これによって藤原四兄弟が朝堂の中心に立ったことは明らかです。「最も利益したものを疑え」ならば、大いに怪しいとしか言いようがありませんが。

こうして藤原氏中心の世の中がやってきたかに見えますが、そううまくいかないところが歴史の「事実は小説より奇なり」というところです。

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