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不比等はなぜ一気に朝堂のトップに立てたか

持統天皇の孫にあたる軽皇子が、文武天皇として即位するのが697年で御年14歳でした。第42代の天皇で、父が草壁皇子、そして母は阿倍皇女のちの元明天皇です。この方は、持統天皇には異母妹にあたり、母親がともに蘇我氏の娘という共通点も持っていました。

これがのちに、文武天皇死後にすんなり首皇子(聖武天皇)には引き継がれず、自らが即位し、さらには娘である元正天皇を経てようやく聖武即位となりますが、その理由は「(蘇我氏を滅ぼした)藤原の血を引く」聖武に皇位を継がせたくなかったといった説を生みます。

確かに蘇我本宗家を滅ぼした黒幕が藤原鎌足であったことは確かですが、実際に手を下したのは持統・元明の父である天智天皇(中大兄皇子)ですから、これは異説に過ぎないなぁというのが私の感想です。また蘇我本宗家は滅びたものの、蘇我氏一族は天智・天武時代を通じてなお、朝堂のトップにいたわけですから。

さて、鎌足の次男であった不比等に戻りますが、文武即位とともにその秘書官的な地位にPhoto 就きました。これには妻の一人であった県犬養三千代が、文武の乳母であったことも影響しているのではと思われます。すなわち太上天皇となった持統の信頼が厚く、まだ若い文武の片腕として三千代が推薦したのかも知れません。

ところで、不比等と三千代は再婚です。というよりも、どうも不比等が略奪したのではないかとさえ思えるのです。三千代の最初の夫は、敏達天皇の三世王(曽孫)と言われる美努王(みぬおう)でしたが、九州(大宰府)赴任中に不比等が寝取ったとも。この時代はもちろん通い婚でしたから、それもまた考えられることです。

なお、美努王との長子がのちの橘諸兄であり、藤原氏と対立することになりますが、三千代も橘の姓をなのります。そして、聖武天皇の后になるのが、不比等と三千代の間に生まれる安宿媛(のちの光明皇后)です。この辺りの人間関係は複雑ですが、やがて来る奈良時代の中核をなす縁関係です。

文武天皇即位の直後に、不比等は娘である宮子を夫人(ぶにん)として後宮に入れます。それができる立場になっていたというべきであり、下級官吏から出発して10年足らずでその地位を得たことになります。しかも、その宮子が首皇子を生むわけです。

また大宝律令の編纂に強く関わり、また日本書紀の編纂にも影響を与えていたとも言われています。日本書紀が天武天皇の正当性よりも、女性天皇たる持統天皇寄りの神話、例えば天照大神の話に力点を置いた点など、不比等の意思を感じるところです。
(写真は藤原氏の氏寺・興福寺)

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