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不比等の期待を裏切った?元明天皇

14歳で即位された文武天皇、祖母である持統天皇が太上天皇として政治の実権を握って、さらに藤原不比等がそれを補佐する形となります。その年に、不比等の娘宮子が文武に嫁ぎ、やがて701年に首皇子が誕生します。しかし、後世のように生まれてすぐに皇太子にというわけにはいかないのが、この時代です。

持統太上天皇も、不比等もいずれはという気持ちがあったと思いますが、ここはじっくり構えることになります。持統が守りたかった皇統が天武系の継続だったのか、それとも天智系の継続だったのかは分かりませんが、結果としては後者が今に続くことになります。

大宝律令が編纂整備されたのが701年、不比等はその律令の推進者としての役割を担います。それによって、朝廷内での地位を確固たるものにしていったようです。ところが翌年暮れに持統は病を発し、そのまま崩御されます。文武は引き続き不比等を側近として重用し、政権を維持しますが、その文武も707年に24歳の若さで亡くなります。

さて、問題はその後をだれが継いで皇位に就くのかです。首皇子はまだたったの6歳でしたから、この時代には対象外です。こういう場合は天皇の弟となることがありますが、文武には姉(氷高皇女)しかいません。皇后が皇位を継ぐ例は推古天皇や皇極天皇、そして持統天皇の例がありますが、文武の后は夫人(宮子)で、しかも皇族ではなく藤原氏の出です。

天武の孫、天智の孫のクラスも少なくありませんが、皇位を継ぐにふさわしい方は見当たりません。そこで異例中の異例、崩御された文武の母であった阿部皇女が元明天皇として皇位を継承しました。前代未聞、後にも先にもこれが唯一です。

不比等も本心からいえば首皇子にということだったでしょうが、さすがにまだ不比等にはそれだけの力はなかったということです。隠忍自重、首皇子の成長をひたすら待つことになります。

こういう状況でしたから、元明天皇の即位は首皇子の成長するまでの「つなぎ」というのがPhoto 通説になっています。でも、つなぎであれば天武の子・孫クラスが一時即位してもよいわけで、なぜ母親が?と疑問はいっぱいです。もしかしたら・・・

元明天皇は天智の娘で持統天皇とは異母姉妹、その母はどちらも蘇我系の女です。うがった見方をすれば、藤原系の首皇子をすんなり即位させたくなかったのではないか、とも考えられるわけです。そうなれば、不比等が外祖父になりますます政治の実権を強める、それを嫌ったのではないか。

ただ、元明天皇には文武以外の皇統男子はなく(文武姉が氷高皇女)、自分の系統で後継していくことはありえません。あるとすれば氷高皇女が天武・天智の皇孫と結婚し、その人物が皇位を継ぐことですが、それを狙ったわけでもなさそうです。

不比等はじっくりと時を待ちながら、持ち前の政治力で律令の実施を推進し、さらに平城京への遷都を実現します。この遷都に、元明天皇は最後まで抵抗したようですが、不比等に押し切られ渋々同意します。ずっと育った飛鳥、藤原京を去ることは断腸の思いだったことでしょう。

さらに右大臣だった不比等は、旧都・藤原京に左大臣・石上麻呂を留守居として残し、事実上朝議のトップに立ちます。留守居というと聞こえはいいのですが、つまりは置き去りにしたわけですし、左大臣はやがて憤死します。いずれにしても、ここから「奈良時代」が始まるわけです。

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