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すんなり譲位しなかった元明天皇

前回は元明天皇の即位、異例中の異例であると書きました。もう一度整理しますと、崩御された文武天皇の母親であってことです。夫である草壁皇子は即位せずに亡くなっていますので、皇后でもなかったわけです。

これまでの女性天皇(推古、皇極・斉明、持統)はすべて皇后でしたが、元明天皇以降の女帝はすべてそうではないのです。しかも、元明天皇の後の女性天皇は独身のまま即位されています。そこで、いわゆる「中継ぎ=つなぎ」だというのがこれまでの通説でしたが、そうではないのではないかという考えも書きました。

その理由は、元明天皇が天智天皇の娘であったと同時に、母が蘇我系すなわち蘇我倉山田石川麻呂の娘であったことを述べました。文武天皇の息子である首皇子の母(夫人)は、藤原不比等の娘である宮子です。首皇子がまだ皇太子ではなく、幼少(6歳)であったからという理由もありますが、それならずっとその地位に就いていて、首皇子にストレートにつなぐはずです。

しかし、元明天皇は生前に退位し、首(おびと)皇子ではなく、その姉である氷高皇女を後継天皇に選びます。もちろん元正天皇は独身で子供はいませんでしたから、その次は首皇子ということにはなるのですが。

そして710年に平城遷都が行われ、ここから奈良時代という区切りに入ります。その前の都を藤原京と言いますが、この名称は藤原氏とは無関係です。藤原京が最後の飛鳥の宮子であるわけですが、決して平城京に劣るものではない、唐風の大きな都であったことが近年の調査で分かってきています。

ではなぜに遷都が行われたのか、このあたりのことが通説では明確に言われていないのですが、一部の歴史学者や井沢(元彦)さんなどは、「怨霊」を怖れたからではないかと言わPhoto れています。蘇我本宗家はもちろん、有間皇子や大津皇子、あるいは聖徳太子の怨霊に怯えたからだともいわれます。

歴史学者の主流派はそれを否定されます。日本に怨霊思想が定着するのは、平安時代の初めからだと言われています。文献に明らかに表れるのがその頃だからと言うのですが、果たしてそうなのでしょうか。怨霊思想そのものは、ずっと古代からあったはずだと思うのですが。

いずれにしても平城京に都が移されますが、元明天皇は不満だったそうです。天皇にとっては、母方である蘇我氏につながる飛鳥の都に心が置かれていたのでしょう。当時の高貴なお方は、皆母方の実家で幼少期を送られるわけですから。
さて平城京では、藤原不比等がじわじわと実力を発揮し、実権を把握していきます。この流れを止める術は、元明天皇にもなかったのでしょう。律令を実際に運用するのは官僚たちであり、そのトップが不比等なのですから。

元明天皇は「最後の抵抗」で病を理由に退位され、元正天皇が即位します。715年のことです。元明太上天皇はその6年後に崩御されますが、後事を託したのは不比等ではなく長屋王であったと言われています。ここにまた悲劇の芽ができるのです。

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