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実の子や孫への継承を望んだ持統天皇

天武天皇の即位とともに、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は皇后となりますが、その経緯は以前に書きました。つまり本来なら皇后位に就けなかったのが、実姉である大田皇女が天武即位前に逝去されていましたので、「繰り上がり」したわけです。

天武との間には男子が一人いて、その名を草壁皇子と言いましたが、天武即位の年には11歳か12歳でした。19歳で立太子したとありますが、大田皇女の息子である大津皇子は1歳年下でした。これも世が世であれば、大津の方が皇太子になっていたかも知れません。

Photo 日本書紀には詳しい記述はありませんが、もしかしたらこの時「草壁」支持派と、「大津」支持派の対立が裏側ではあったのかもしれません。といいますのも、草壁は健康的にはあまり恵まれておらず、また有能さにおいて大津に及ばなかったとの説もあります。日本書紀にも、大津の優れた才能を記した記事があります。

この時期はまだ、皇位継承についての定まったルールはなかった時代ですので、どちらに皇位を継承するかという、つばぜり合いもあったのではないでしょうか。そんな中で鸕野皇后は、当然ながら実子である草壁の即位を願い、根回しを行っていたと考えるのが自然でしょう。

しかし、現実の状況は厳しいものがありました。天武天皇が薨去されたのは686年ですが、すぐに草壁が即位することはありませんでした。その年に草壁は重病の天皇から大権を委任されますが、大津もまた同等の権力を得ていたようです。

そのために、悲劇的な事件が起こります。すなわち、天皇崩御の翌月、大津皇子は謀反の疑いをかけられ処刑されてしまいます。表立っては書かれていませんが、この事件には皇后の意思が働いたと見るのが妥当でしょう。何としても我が子を天皇にという強い意志です。

しかし、なお草壁は即位できず、皇后が政務を担います(称制)。これはこれまでもあったことなのですが、やはり大津処刑への反発もあったと思われます。しかも、天皇崩御から3年後に草壁が病死してしまいます。天武の子息もまだ二人のほかに何人かいたわけですが、皇后は一足飛びに草壁の息子・軽皇子(のちの文武天皇)への継承を望みました。

しかし皇子はまだ幼少、そこで自身が即位することになるのですが、それは天武の崩御から3年以上も経っていました。軽皇子が成人するまでのつなぎという意識を持っていたと思われますが、持統天皇はもっと強い意志と権力を発揮するのです。

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