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天武天皇はなぜ独裁を行ったのだろうか

古代史を語る際に気を付けなければいけない点は、そのややこしい系図・係累です。一人の天皇(大臣)や豪族に複数の妻は当然として、その間の近親婚がややこしく、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまうこともあります。

もっともこの辺りのことは、現代の常識で考えてはいけないわけで、極力「古代人の意識」や立場に立って眺めてみると、なるほどなと妙に納得できるから不思議です。別に古代日本が(性とか婚姻に)大らかであったわけではなく、要するにそういう社会だったということに他なりません。あえて、現代常識を当てはめる必要はないわけです。

Photo そこで天武天皇ですが、即位されたのは前回書きましたように673年(天武天皇2年)で、即位の地は飛鳥浄御原(あすかみよみはら)宮であったと伝えられています。そして皇后に立てられたのが鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、後の持統天皇です。鸕野皇女は、天智天皇の娘であり、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘。

実は同母姉に大田皇女がおられ。先に天武に嫁いで一男一女をもうけていますが、天武即位前に亡くなられています。そこで鸕野皇女が皇后になられるわけですが、これが後の大津皇子の悲劇にもつながっていきます。なお、天武の妻はもっとたくさんいらっしゃいますので、当然ながら皇子も数多くおられます。

さて、天武天皇は独裁的な親政を目指し実行したと言われています。この以前は、蘇我氏やさらに以前は物部氏、あるいは大伴氏など豪族の力が強く、ある意味合議制で朝廷が運営されていたようですが、乙巳の変以後蘇我本宗家の力が衰えるとともに、天皇(大王)の力が相対的に高まったと言えます。

とはいえ、豪族が全くいなくなったわけではないわけで、天武としても大きな目的のためには天皇としての力をもつことを、必要としたのでしょう。それは律令制度の整備、あるいは当時の唐にならった都づくりでした。朝廷の組織を革新することもあったでしょう。

律令の完成は大宝律令と言われますが、その土台となる飛鳥浄御原律令(令)が681年に出されます。そして、鸕野皇女との間の子、草壁皇子が皇太子となります。ただ、そのことが果たして天武の強い意思であったのかどうかは疑問です。2年後に、大津皇子を朝廷の中心に置いた(太政大臣?)とも言われます。

すでに天武は体調を崩されており、晩年に向かって気懸かりも多かったのだろうと推察されます。時代は一気に流れていきます。

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