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大海人皇子は本当に天智の弟なのか

JR西日本・湖西線は、東海道本線山科駅を起点に北陸本線の近江塩津駅まで、琵琶湖の西岸を走る路線で、関西から北陸への短絡線となっています。その最初の駅が大津京駅ですが、もちろん天智天皇の京城に因んで、開業時の西大津駅から改称されました。

ところでこの大津京という名、日本書紀には出て来ません。書紀の中では「近江京」と書かれていて、大津京という名は明治以降に研究者が名付けたものとされています。天智天皇の在位時代はもちろん単に「京(みやこ)」と呼ばれていたでしょうし、日本最初の律令とされるものは「近江令」というものです。

それはともかくとして、この都は僅か5年で廃都になってしまいます。667年の遷都から、壬申の乱において大友皇子(弘文天皇)が自裁されて、大海人皇子が飛鳥に戻られるとともに、都としての機能は自然になくなります。

Photo この地に都が遷されたのは、白村江の戦いで敗れたあとで唐・新羅からの攻勢を防ぐためとも言われていますが、それならもっと東へ遷した方がいいのではと思ってしまいます。表向きにはそういう理由だったのでしょうが、本音は天智外交への反対派や、飛鳥に厳然として残る蘇我氏や旧来の豪族の影響を避けたのでしょうね。

さて、671年に天智天皇が崩御しますが、その前に大海人皇子は主な家族や郎党と共に飛鳥を超えて、吉野へ居を移してしまいます。かつての教科書には大海人皇子は、皇大弟として天智の後継者であったと書かれていましたが、当時はまだ皇太子とかいうような、王位継承の明確な規程はありませんでした。

しかしハッキリしていることは、天智の後を継いだ大友皇子は、少なくとも通常では後継者には慣れない立場だったと言われています。ただそれが天智のごり押しだったのかどうかということは、不明な点も多いわけですし、不可能を可能にすれば揉めることは自明の理だったわけですから、さすがの天智もそこまではやらかったと見ています。

だが現実に近江京の主は大友皇子になりましたし、それに反対する勢力は大海人皇子を担ぐことになったはずです。では大海人皇子は、本当に天智の弟(しかも同じ皇極天皇の出生)だったのでしょうか。これにも多くの異説があり、最近では「むしろ兄であった」説の方が有力になっています。

そんな深いことは私には分かりませんが、壬申の乱が教科書的な単なる王位の争いではなく、実は天下分け目の戦いであったし、そこにはもしかしたら壮絶な「女の闘い」があったのではないかと推察されるものです。

ところで『琵琶湖周航の歌』には、この近江京は「志賀の都」として、一番の歌詞に出てきますね。

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