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表の歴史から隠された蘇我馬子の事績を追う

さて、蘇我馬子に話は戻ります。聖徳太子と同時代に、政権の中枢にあったということは、前回・前々回の歴史コラムで書いた通りです。歴史の教科書では、仏教の導入に熱心で、それに反対した物部氏(物部守屋)をせめて滅ぼしたことが掲載されています。

そして、その戦いに若き日の聖徳太子(正確には厩戸王)も参加し、最前線で剣を振るったと記録にあります。この時仏に必勝を祈願し、勝利の暁には一寺を建立することを誓いますが、その寺が大阪の四天王寺です。余談ですが、四天王寺を建立するために百済から呼び寄せられた技術者等が「組合」を作り、それが日本最古の企業「金剛組」のルーツでPhoto す。

日本書紀には、厩戸王(とは記されていませんし、もちろん聖徳太子とは書かれていないことは前回記した通りです)の事績として、十七条憲法はじめ多くの政治的事業、あるいは小野妹子をはじめとする遣隋使の派遣などが書かれていますが、同時代にできた古事記とは記述の仕方や内容が異なります。

そこで、実はこれらの多くは大政治家であり、時の最大権力者であった馬子の事績ではないかという説が出されているわけです。私は史学者ではありませんし、そういう研究をするには知識も能力も持ち合わせません。多くの様々な立場で書かれた評説を、興味本位で眺めているに過ぎません。

そういった素人目線で、しかもただの第六感で物言えば、上記の説が正しいような気がいたします。とくに日本書紀は、どうも藤原氏の「正当性」をことさらに強調するために編纂されたようであり、その政敵であった蘇我氏を極端に貶めることに注力したと思われます。

ですから、少なくとも日本書紀には馬子の輝かしい事績はほとんど記されていません。多くのことが厩戸王という、後に聖徳太子と称される皇族のやったこととして記され、それが強調されればされるほど、馬子の存在が小さく見せられているようです。

そして馬子の孫に当たる蘇我入鹿が、中大兄皇子や中臣鎌足などの「革新的英雄」によって、誅殺されたことによって、さらに馬子の存在を低めていると見られます。この誅殺、すなわち乙巳の変については改めてコラムにまとめますが、こちらもどうもかつて歴史で学んだこととは大違いのようです。

蘇我氏の氏寺は、飛鳥の中央にある飛鳥寺(法興寺)です。橿原神宮駅から東へバスで10分足らず、ゆっくり散歩しながらでも1時間はかかりません。平城京にある興福寺が藤原氏の氏寺であるのと、どうしても対比して考えてしまいますが、非常にいいところです。

というより、飛鳥(明日香)というところ自体がとっても素晴らしいところです。古代史の中の輝ける時代が、そこに展開されていた。そんな心でゆっくり歩き回ってみたいものです。

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