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中大兄皇子は失礼ながらうさんくさい存在

青森県(八戸市)への遠征から昨夜遅く戻りました。さすがに、疲れが残っています。気力は充実していますが、やはり年齢には勝てないのかなと感じています。今日明日の2日間休むと、また水曜日は朝から遠征に出発します。

さて、古代史コラムは中大兄皇子の話に入っていますが、どうもこの人物は歴史の教科書にかつて書かれていたような「英雄」ではないように感じます。私の時代には、中大兄皇子は中臣鎌足と一緒に大化の改新を推進した人物であり、それまでの政治体制を一新し律令政治の元をつくったと教えられました。

どうもそれが違うようなのです。もちろん通説には、大きな変更があるわけもないのですが、通説とが違う歴史の解釈が多くなってきているのは事実です。かつて読んだ本には、中大兄皇子は実は百済の皇子・余豊璋であったのだと書いてありましたが、最近は余豊璋は中臣鎌足ではないかという説が有力になっています。

中臣鎌足、のちに藤原の姓を賜り藤原氏の祖となる存在です。しかし、その素性は大きな謎に包まれています。ある意味突然に歴史の表舞台に現れ、途中はなぜか姿を消して、天智天皇即位後にまた再び表舞台に現れます。

さてこの2人の出会いは「蹴鞠」の会(練習?)で、中大兄皇子の沓が脱げたのを鎌足が拾い上げて差し出したことからと言われています。この当時「蹴鞠」が既にあったのかどうかPhoto も疑われていますが、偶然の出会いにしても出来過ぎた話と思われませんか。

それまで全く無名の鎌足が、皇極天皇の息子である中大兄皇子に接触できるというのもおかしいですが、もし鎌足イコール百済の王子(人質)だったら可能かも知れません。この2人が何人かの同志を誘って乙巳の変を起こします。ここにもおかしな事実があります。

一つは、中大兄皇子はなぜ「仲の良い」弟、すなわち大海人皇子を仲間に引き入れなかったのでしょう。本来なら最も信頼できる肉親であるはずなのに。もう一つは、大極殿の中で蘇我入鹿に暗殺剣をふるったのは中大兄皇子ですが、この時鎌足は少し離れた柱の陰で見ていたとか。役者が反対なら分かりますが、どうしてなのでしょう。

こんな風に疑問がやたらと多いのですが、日本書紀に基をおいた通説にはかなり矛盾が多いことを、感じているわけです。書紀が編纂された時代は藤原不比等(鎌足の長男)、そしてその息子たちの全盛時代、鎌足やその「親分」たる天智天皇を持ち上げることに全力を注いだことは、十分に予想されることです。

歴史書は割引して読む必要がある、日本書紀もまた例外ではなさそうです。

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