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なぜ古代史をイフで語ろうとするのか

歴史の真実は一つです。人間が行動したその結果が歴史なのですから、一度に相反する二つのことはできませんから、それは当然のことです。

しかし、歴史書が正しい歴史、すなわち真実を伝えているかということは甚だ疑問です。現代のように多数の記録媒体が存在し、しかも即時的に真実が残っていく時代ですら、その真実は絶対かと問われれば「??」と応えざるを得ないこともあります。ましてや、記録のPhoto 少ない古代はどうなのでしょう。

正史と呼ばれる「日本書紀」や「続日本紀」は、果たして真実を伝えているでしょうか。正史だからといって、「正しい歴史」を書き残しているとは限らないというのが真実です。いや、むしろ当時の為政者・権力者によって真実が曲げられている、隠されていることを当然として読む必要があります。
もっとも現代は伝える手段が余りに多すぎて、いったいどれが真実かを見極めるということが難しいという、別の悩みがありますが、古代史は記録がほとんどないことによって、真実が見えてこないという悩みがあります。となると、正史をまずは素直に受け入れながら、逆説をいくつか想定して「歴史のイフ」に迫ることが必要になるでしょう。

私などは歴史家でも何でもないので、「歴史のイフ」を唱えたところでなんの影響ももたらしませんし、せいぜいこのブログを読んで下さる方がうなずいて下さるくらいです。でも、想像をたくましくしていくと、これまでと違うモノが見えてくるのは不思議です。基本は、普通の人間ならどう動くかという、脳力開発的な見方です。普遍性と特殊性、とくに普遍性の方にフォーカスして見るわけです。

さてこれまで、古代史の中でもなかなか真実が見えてこない飛鳥時代、蘇我馬子を中心に天武・持統朝といわれる時代にかけてを見てきましたが、みれば見るほど正史、あるいは教科書的歴史に{??」がいっぱい付いてきます。何かつじつまの合わないことが多いなぁと思わざるを得ないのです。

例えば、馬子の事績はなぜ日本書紀に詳しく書かれていないのか。聖徳太子という名前が書紀に出てこないのはなぜか。中大兄皇子は、どうして乙巳の変の直後に即位しなかったのか。天武天皇は、皇后(のちの持統天皇)と仲が良かったと書紀に書いてあるけれど、他の天皇(大王)のことはどうして書いていないのか。

その他挙げていくとキリがないのですが、素人の限界でとても真実には迫れません。そこでこれからも、ほかの方の論を借りながら思いつきを書いていこうと思っています。引き続きお付き合い下さい。

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