« 脳力開発は人間学であり行動科学です(76) | トップページ | 参院選で目立たなかった「鹿児島の乱」に注目 »

7世紀ヤマトのトップリーダーは蘇我馬子だった

645年に起こった事件を、最近の教科書は「乙巳(いっし)の変」と正しく教えています。私たちが学んだ頃は「大化の改新」とだけ書かれ、改革派の中大兄皇子と中臣鎌足が、改革反対・反動派の蘇我入鹿を殺し、蘇我一族を滅ぼしたと教えられた。

蘇我馬子のことを調べていて、この時代最大とも言うべき政治家の馬子のことが、正史である日本書紀では余り触れられていないことに疑問を感じたのは、高校時代からのことでした。担任の先生が日本史の担当で、当たり障りのない事象をお話になるだけでなく、時Kodaikeizu 代背景や通説以外のことに、少し触れられたせいでした。

私は歴史の、とりわけ古代史の専門家ではないので、感覚的に大まかに言ってしまえば、日本書紀の編者あるいはそれを命じた人は、馬子の事績を抹殺してしまったのではないか。代わりに聖徳太子という「聖人」を配置して、目くらましをしたのではないかと。そして、乙巳の変とは単なる「暗殺事件」に過ぎないのだと。

書紀が隠せば隠すほど、馬子の存在が大きいのだと感じているわけです。ではなぜ、隠す必要があったのか。それは、「蘇我氏を徹底的に悪者にしなければならなかった」からではないのでしょうか。では誰が?

私が学んだ教科書的歴史では、書紀(と古事記)は天武天皇が命じて編纂させたとありましたが、では蘇我氏を悪者にするというのは天武天皇の意思だったのでしょうか。ハイ、そのように信じておりました。ですが、もしそうだとすると、つじつまの合わないことが前後にたくさん出てくるのです。

ここではその一つ一つを挙げていくわけにはいかないのですが、それらをつなぎ合わせると「意思決定者」は天武天皇ではない。第一、書紀ができあがった頃にはというか、できあがる過程でもすでに薨去されて何年も経っているわけですから。では誰か?

一つのカギは、乙巳の変の後も蘇我氏が政治の中心にいたことです。確かに蘇我本宗家は滅びましたが、蘇我倉山田石川麻呂は孝徳天皇政権の中枢に位置し、他にも蘇我系の朝臣が脇を固めています。この事実はどう捉えたらいいのでしょうか。

第一、中大兄皇子はどうして乙巳の変後すぐに即位しなかった、いやできなかったのでしょうか。孝徳天皇が即位し、その後は称徳天皇が重祚し、ようやく天智天皇に至るのです。まだまだ謎はいっぱいあります。想像を膨らませるだけでもワクワクします。

いずれにせよ、7世紀の日本(ヤマト)を輝かせた英傑は蘇我馬子だ、そう断言していいのではないでしょうか。

« 脳力開発は人間学であり行動科学です(76) | トップページ | 参院選で目立たなかった「鹿児島の乱」に注目 »

「歴史と人間」ひとりごと」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/107188/63901924

この記事へのトラックバック一覧です: 7世紀ヤマトのトップリーダーは蘇我馬子だった:

« 脳力開発は人間学であり行動科学です(76) | トップページ | 参院選で目立たなかった「鹿児島の乱」に注目 »