« 不勉強な政治家には真実が見えるはずがない | トップページ | 一年前の母の最期に思いを馳せる »

大坂の陣では全く動かなかった高台院さん

さて「ねねさん」は秀吉の死後5年目の慶長8年に落飾され、朝廷から院号を賜りましたので、ここからは高台院さんと呼ぶことにしましょう。この年、秀頼と千姫の婚儀が整い、豊臣と徳川の絆が強く結ばれたことにホッとされたことでしょう。

この頃高台院さんの知行は1万5千石を超えており、将軍・家康もこれを承認しています。万石と言えば「大名」クラスです。色んな意味で重みを備えておられたのでしょう。日常は亡き秀吉の供養に専心されたと思いますが、やはり第一は豊臣家の安寧であったことと思います。

慶長10年に高台寺を創建・建立されていますが、ここには秀吉と共に実の母を祀っておられます。このお母様は、秀吉との婚礼を死ぬまで認めなかったということですが、高台院さPhoto んも心を痛められていたのでしょうか。なおこれ以降は、その門前に住まれていたようです。私も京都に行くと、高台寺の周辺を歩くことが多く、ホッとするスポットでもあります。

2代将軍秀忠は、人質として在京中に高台院の手元で暮らしており、そのことに終生感謝していたようです。事実、知行地を増やしていることからもそのことが裏付けられます。

前田利家の妻まつ(利家の死後芳春院)と仲の良かったことは前回も書きましたが、京都時代は交流されていましたが、芳春院が江戸に赴いてからは書状のやりとりがあったのでしょうか。また、山内一豊の妻見性院さんとも親しかったようで、一豊の死後京都に赴いた見性院さんは、高台寺屋敷の近所に住まれたそうです。

さて、大坂の陣です。この時高台院さんがどう動かれたのか、秀吉恩顧の大名にどんな影響を与えられたのか、あるいは大坂城の秀頼や淀殿に対してはどうだったのか、気にかかるところです。

事実から言えば、「動くことができなかった」と考えられます。家康から強い監視の目を向けられていたこともありますし、高台院さん自身も自分が与える影響や刺激を意識されていたのでしょう。おそらく、豊臣家の安寧のためには大坂城を退去することを願っておられたと思いますが、そうならないことがハッキリしてアキラメの境地に達せられたのではないかと。

ですから関ヶ原前夜には、色々な動きをされていたようですが、大坂の陣では京都からほぼ動かれておりません。亡き人たちを弔う日々送られ、9年後の寛永元年秋に高台寺屋敷で死去、墓所は高台寺にあります。その参道は「ねねの道」として散策コースにもなっています。ぜひ、京都に来られたら歩いてみて下さい。

« 不勉強な政治家には真実が見えるはずがない | トップページ | 一年前の母の最期に思いを馳せる »

「歴史と人間」ひとりごと」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/107188/63732685

この記事へのトラックバック一覧です: 大坂の陣では全く動かなかった高台院さん:

« 不勉強な政治家には真実が見えるはずがない | トップページ | 一年前の母の最期に思いを馳せる »