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厩戸王(聖徳太子)は蘇我系の皇族だった

蘇我馬子についての2回目ですが、今回は馬子ではなく聖徳太子について。つまり、「聖徳太子イコール馬子(入鹿という説もあります)」という説がありますので、この際触れていかないわけにはいきません。なお、「聖徳太子は存在しなかった」説もあります。

前回も書きましたが、厩戸皇子(うまやどのみこ)という方は間違いなく実在したようです。用明天皇の第二王子で、母は穴穂部間人皇女で、この方は欽明天皇の皇女で母は蘇我氏。用明天皇の母も蘇我氏出身でしたので、厩戸皇子も「蘇我系」皇族でした。

厩で生まれたという説は、何となくイエスキリストを連想させますが、当時は母方の実家で出産ということを考えると、馬子の屋敷で生まれた可能性もあり、馬子屋敷→厩戸というのはうがち過ぎでしょうか。いずれにしても蘇我氏との縁が深く、馬子と連係して政務に当たった可能性も高いわけです。
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聖徳太子というお名前は、死(622年)後に諡されたものと思われますが、日本書紀にもその名は見られません。書紀の中では、「豊耳聡聖徳」とか「東宮聖徳」と書かれたいたと記憶していますが。平安時代初めには「聖徳太子」と称されたようです。

こういう高貴な(「聖」も「徳」も大変高貴です)名前を贈られるのは、怨霊になられるのを防ぐためという説もあります。つまり、死に際に何か不幸なことがあり、現世に大きな恨みを遺されたということです。何しろ記録が余りありません、また日本書紀の記録もあいまいであり、どこまで信頼できるか疑問も多いですね。

さて、聖徳太子の事績はこれまでは歴史の教科書にも大きく載せられていました。十七条憲法、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣等々。隋の煬帝に宛てた「日出るところの天子」で始まる国書は、とみに有名です。これらのことが太子の手で行われたものか、それとも馬子との連係で行われたか、それとも馬子一人の業績なのか。

なんの史料もない中で、私などの意見は思いつき以上の何物でもないですが、この時代の政治の中心は蘇我氏であり、中でも馬子の実力も博識も抜きんでていたわけですから、馬子の業績なのでしょう。しかし、それではいかにもうまくないので、厩戸皇子・推古天皇の名で行われたのでしょう。

ところで太子が推古天皇の摂政であったかどうかですが、この時代に摂政という役職名はまだありません。後世の摂政に値する役割だったということなのでしょうね。いずれにしても太子と蘇我氏が対立関係だったわけではありません。事実物部守屋を滅ぼした戦いには、太子自身が蘇我軍の先頭に立っていたのですから。

そんなわけで謎多き聖徳太子ですが、最近の教科書には「厩戸王(聖徳太子)」と記されているようです。我々世代はお札の肖像という印象ですが、現代の子供たちはどのように学び、感じているのでしょうね。

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