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長命だったが幸せな人生だったろうか

近江八幡市の八幡城趾に、日蓮宗の瑞龍寺という寺院があります。元は京都(最初は嵯峨村雲、のち西陣)にありましたが、50数年前にそこに移されました。なぜに?

実はこの寺は16世紀末、ある女性の思いの末に建立され、当時の後陽成天皇より寺号と寺領1000石を与えられ、後には門跡寺院となった由緒です。これは日蓮宗では唯一であり、一時は村雲御所とも称されたそうです。

Photo この寺を開いたのは瑞龍院日秀という女性(尼)、俗名を智(子)と言われます。戦国時代真っ只中の天文年間に生まれ、亡くなったのは江戸時代の寛永年間、3代将軍家光の時代まで長生きされ、享年92歳でした。

母は天瑞院、すなわち大政所と称された豊臣秀吉の母なか、そしてこの智(とも)は秀吉の実姉であるわけです。三人の息子は、長男秀次と次男秀勝が秀吉の養子になり、三男秀保は豊臣秀長の養子になりましたが、いずれも若くして亡くなりました。

しかも秀次は関白にまで上りつめましたが、秀吉に実子(のちの秀頼)が誕生したことで地位を追われ、謀反の疑いをかけられて高野山で自刃し、その妻子のほぼすべてが京の三条河原で処刑され根絶やしにされました。父親、つまり智の夫・三好吉房も流刑されてしまいます。この時期の秀吉は、子供かわいさに狂ってしまっていたとしか思えません。

しかし姉の智はじっと耐えながら、処刑された子や孫の菩提を弔うために出家して、嵯峨に寺を開くのです。村雲という地は、確か現在の二尊院のある辺りかと思います。

大坂の陣の数年前に夫は先立ち、大坂の陣では豊臣一族の滅亡を目の当たりにします。しかし、日秀が何かしたという記録は特に残っていません。ただひたすらに、南無妙法蓮華経を唱えておられたのでしょう。

ひっそりと亡くなったわけですが、現在の寺のある近江八幡は秀次が築いた城下町です。そして、次男秀勝と江(のち徳川秀忠の正室)の間に生まれた完子(さだこ)は淀殿に育てられ、九条家に嫁ぎ、その子孫が大正天皇の貞明皇后につながり、現在の皇室に脈々と豊臣の血を伝えていることになります。

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