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昭和の鉄道史を飾った超弩級・デイ100

今日はちょっと想い出話。

私が鉄道というかデンシャに興味を持ったのは、物心が付いた3歳くらい、あるいはもう少し前のことらしい。らしいというのは、本人にはハッキリした記憶がないし、よく知っているはずの両親は既に他界してしまっているからだ。

でもその頃住んでいた社宅からすぐのところに、大阪市電(いわゆるチンチン電車)が走っていて、それを倦かずに眺めていたり、家の中では積み木を電車代わりに、障子の敷居をレール代わりに遊んでいたのは記憶の端に残っている。

幼稚園に入る頃、阪急沿線の十三(じゅうそう・大阪梅田から2駅目)に引越して、阪急電車との縁ができた。当時から数えるともう60年のご縁ということになる。小さい頃から体がPhoto 弱く、産まれた病院に主治医がいて、そこに通院するには阪急と国鉄(城東線=現在の大阪環状線の東部分)を乗り継いで行った。

阪急の茶色(ホントはマルーンという)は品があり、城東線のオレンジ(バーミリオン)は子供心にも厚化粧したおばさん(年増)に見えた。当時の電車はもちろん吊り掛けモータで、その唸り音で形式を当てたものだった。阪急の電車はほぼ百発百中、国鉄も51系と73系とでは違いがあり、80系も区別が付いた。

中でも別格は阪急神戸線の800系・810系、京都線の710系そして100系、とりわけ「P-6」と称されたデイ100の200馬力モータの凄さは群を抜いていた。しかも全鋼製電動車は自重52トンという超弩級で、これが時速100km以上で驀進するのだから、その迫力は子供心をすぐに虜にした。

高校に入るとその京都線沿線に住むことになり、デイ100にも乗れると期待したが、残念なことに家は国鉄側に位置していたし、最寄りバス停へのバスは国鉄駅から出ていた。高校も国鉄駅の方が僅かに近く、所要時間は若干かかっても国鉄に乗って通学した。楽しみは運が良ければ、セミクロスの電車に乗れることだった。

しかし、3年生になった時にどうしてもと親に懇願し、阪急通学に変更した。翌年に大阪万博が始まり、100系も最後の活躍を見せたがついに71年頃から廃車が始まり、73年には引退してしまった。しかし、両運転台の116号車が現在も動態保存され、また写真の101号車も先頭部が正雀工場で保管されているのは嬉しいことだ。

省エネ・軽量化が進んだ今日では、もうこのような豪傑が登場することはないだろうな。

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