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戦国の正真正銘女城主

戦国の女城主というと、大坂夏の陣で自害して果てた淀殿が頭に浮かびますが、大坂城の主はあくまで息子の豊臣秀頼でした。淀殿はあくまで秀頼の母であり、後見人という立場でした。

関ヶ原の戦いで敗れた武将の中で、唯一大名に返り咲き、しかも旧領を与えられたということで立花宗茂を取り上げたことがありますが、今日はその妻(最初の正室)の話です。戦国の女性として、非常に象徴的な存在でもあるのです。

その名は、戦国の女性としては珍しくキチッと伝わっています。それは、この女性が実父から領地を嫡子として相続し、世間からも認められていたからです。その名は立花誾千代、「ぎんちよ」と読みます。

Photo 永禄12年の生まれと伝わりますから、1569年のことで筑後・間本の産まれです。父親は大友宗麟の重臣、戸次鑑連(べっきあきつら)すなわち立花道雪です。もっとも鑑連は死ぬまで立花姓を名のってはいませんが。誾千代は鑑連の唯一の子供で、養子をとることを拒んだ鑑連は、7歳の誾千代に家督を譲り、大友家もこれを許したのです。

そして、高橋紹運の長子であった統虎、のちの宗茂を婿に迎えることになります。この時誾千代は13歳、宗茂は15歳であったそうです。そして城主の座は宗茂に譲られますが、誾千代はあくまで「嫡子」のプライドと意地とを持ち続けたようです。

紹運が島津の大軍に包囲され壮烈な戦死を遂げた後も、立花城の包囲戦で2人は城を守り続け、やがて秀吉軍の進攻で島津軍は退却していきます。こうして宗茂は筑後柳河を領して秀吉に仕えることになりますが、なぜか誾千代は城を出て郊外の宮永に住み、「宮永殿」と呼ばれることになります。

記録書には『夫婦不仲』とありますが、やはり男勝りの性格、婿を認めなかった勝ち気が徒となったのでしょうか。童門冬二さんの「立花宗茂」には、この辺りのことも詳しく書かれていたように記憶しています。

関ヶ原の戦いで宗茂は大津城の戦いで勝利しながら、敗将として柳河に戻ります。この時加藤清正軍が立花城の開城を迫って進軍しますが、誾千代の守る宮永を迂回して通ったとも言われています。完全武装した誾千代とその周囲の女性の攻撃を、警戒したと伝えられています。

結局、誾千代と宗茂はその後も和解することなく、やがて宗茂は京都に向かい、誾千代は肥後領の玉名に住んで清正に庇護されます。そして慶長7年(1602年)に享年34歳で死去します。2人の間に子はなく、立花氏血縁は断絶することになりました。

最後まで当主・城主の誇りを失わなかったことが、女性として幸せだったのかどうなのでしょうか。

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