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目立たないが和平に尽くした女傑

常高院、じょうこういんと読みます。姓は浅井、名は初(はつ)です。そう、浅井三姉妹の次女で、父は浅井長政で母はお市の方、伯父が織田信長で姉が茶々(淀殿)、妹が江(ごう)すなわち徳川2代将軍秀忠の正室です。

二人の華やかな姉妹に挟まれていささか目立たない存在のように思えますが、実は色んな場面で主役を演じています。しかも三人の中では最も長く生き、寛永10年に亡くなった時64歳くらいだったそうです。

Photo 初は合わせて4度の落城を体験しました。1回目が実父浅井長政の小谷城、2回目が養父柴田勝家の北之庄城、3回目が夫である京極高次の大津城、そして4回目が大坂城(大坂夏の陣)です。大坂城の際には淀殿と秀頼が自害し、山里廓に火が点けられる前に脱出し、家康の本陣に出向いて彼らの助命を嘆願したと伝えられています。

夏の陣に先立つ冬の陣では、和睦の使者を務めて家康の側室であった阿茶の局と会談、その後も大坂方の使者として仲介の労をとっています。二人の姉妹の安寧を願ってのことと推察されますが、老獪な家康に翻弄された感はぬぐえません。

ちなみに初が嫁いだ京極家は、鎌倉時代以前からの名家で、室町時代初期には婆娑羅大名として名高い佐々木道誉を輩出しています。その後は次第に衰え、戦国時代には被官であった浅井氏に圧されていました。

御家再興を焦った京極高次は、本能寺の変で明智光秀に味方して秀吉の居城・長浜を攻め落としますが、逃げ隠れせざるを得なくなります。姉の竜子が秀吉の側室になる(松の丸殿)ことで領地を与えられ、やがて初を娶り、大名になっていきますが、周囲からは「蛍大名」と揶揄されたとか。

関ヶ原の戦いでは東軍に付き大津城に籠城しますが、立花宗茂に攻められ落城、この時初も長刀をとって戦ったと伝わります。立花宗茂を足止めした功で小浜城主となり、京極家は後に出雲を経て四国丸亀に移り、明治維新に至りますが、その礎を作ったのは初だといっても過言ではありません。

確かに三姉妹の中では余り目立たぬ存在ではありましたが、ある意味したたかに動乱期を生き延び、婚家の再興と発展に尽くすとともに、東西両家の仲を取り持つ役割を懸命に果たした「女傑」と呼べるでしょう。

墓は小浜の常高寺にありますが、キリスト教にも帰依しており、小浜には多数の遺構が残っています。

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