« 過半数以上が初心者というMG進行中 | トップページ | MG100期は思考と行動が変わる節目 »

美濃御前・濃姫はどんな存在だったのか

八戸遠征からの帰り道、乗った新幹線は新函館北斗駅発ですが、JR北海道のE5系ではありませんでした。快適でAC電源があるのも嬉しいですが、トンネルが多くてWiFi電波が時々途切れるのは、ナントカしてほしいところです。

さて今日の「歴史と人間」は、濃姫を題材にしてみます。濃姫、いわずと知れた織田信長の正室ですが、この人も表舞台には殆ど現れず、謎の多い生涯のようです。斎藤道三の三女、名は帰蝶で生年(天文4年=1535年)は分かっていますが、没年は不明です。というよりも諸説があって、どれが本当かが分かりません。

ただ、信長が「天下人」に近づいた頃ならば、正室だったわけですから何らかの正式記録が残されても不思議ではありませんから、ずっと以前に亡くなったか、あるいは離縁されて表舞台から引っ込んだと推定しています。(写真は濃姫の墓と伝えられるもの)

Photo 信長の正室でしたが、子供は産んでいません。信長の子は少なくありませんから、子をなしていないのだとすると、余り夫婦仲が良くなかったのかとも推定します。なぜなら、信長は側室たちを大事にしていて、時にはニックネームを付けたりしているほどです。

中には本能寺の変まで同行していて、自らも長刀を持って戦い、討ち果てたとの説もあり、映画やTVドラマではそのように演出している例も多く見られます。

また、斎藤道三の正室・小見の方から生まれており、小見の方が明智光秀とも縁戚だという説もあり、光秀といとこだとも言われています。そうなると、本能寺の戦いでは真っ先に助け出されるはずで、そこで戦った死んだというのは矛盾が多く感じます。

とにかく、信長に嫁いで以降は表に現れることも少なく、太田牛一の『信長公記』にも嫁いできた記述があるのみで、その後の記事には書かれていません。

では濃姫の役割は希薄だったのかと言うと、そうでもなかったと思われます。信長の美濃攻めは7年の長きに亘っていますが、その口実は濃姫の実父である道三の「敵討ち」だったわけですから、その意味での存在感はあったのでしょう。

そうなると、美濃を手に入れ岐阜城主となってからは、存在する必要性も薄くなったと思われますので、もしかしたら自ら身を引き、ひっそりと亡き父の菩提を弔ったとも考えられます。『蝮の道三』の娘だけに強い女性を想像させますが、実は自分をわきまえていた深窓の令嬢だったのかも知れません。

歴史も想像を膨らませると面白いものです。

« 過半数以上が初心者というMG進行中 | トップページ | MG100期は思考と行動が変わる節目 »

「歴史と人間」ひとりごと」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 過半数以上が初心者というMG進行中 | トップページ | MG100期は思考と行動が変わる節目 »