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長生きした徳姫の人生は幸せだったか

徳姫と聞いて、あああの女性かと肯ける人は、かなりの歴史通あるいは歴女といって佳いでしょう。幼名は五徳、そう火鉢の上部に設置して鍋ややかん、焼き網などを載せる道具Photo のことです(写真)。儒教の「五徳=仁義礼智信」とは、関係はないようです。

その名付け親はもちろん父親、かの織田信長です。信長は子供たちに親しみを込めて名付けたようですが、奇妙丸(信忠)とか茶筅丸(信雄)は五徳の弟たちで、いずれも生駒の方(吉乃)が産んでいます。

永禄2年(1559年)の生まれですが、8年後に徳川家康の嫡男・信康に嫁ぎます。やがて二人の子が産まれますが、いずれも女の子であったために信康の母・築山殿にうとまれ、側室を持った信康とも仲違いをしたと言われますが、この時代男子が産まれなければ側室を持つのは当然であったわけで、現代感覚で推測するのはどうでしょうか。

ただ、信康との仲が徐々に疎遠になっていったのは事実らしく、そのことが悲劇を生むことにもなります。この当時、嫁ぎ先の内情を実家に報せるのは「外交官」としての女性の重要な役目ですから、徳姫も信長に書状を出しています。

ところがその一通が世に言う『十二ヶ条の訴状』で、信康の暴君ぶりや築山殿の密通や武田方とのつながりを訴えたのです。結局、信長は信康と築山殿の始末を家康に命じ、徳姫は美濃に戻ります。歴史の表舞台からはほとんど消えてしまうのですが、想像を膨らませますと、やはり実家に戻っていたお市の方と互いの不幸を慰め合っていたのかも。

徳姫は長生きします。小牧の役で秀吉と信雄が講話した後、人質として京に送られたようですが、美濃と京都を行ったり来たりして、寛永13年(1636年)に亡くなっていますから、80歳近くまで生きていたようです。

ただ幸せな人生であったのかどうか。

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