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柴田勝家は不器用な人生だった

今日は二十四節気の一つ「大寒」、一年で最も寒く雪の多い時期ですが、今年はどうしたのでしょうか。年々雪の降り方は少なくなっていると、地元の方などは言われますが、確かに昔の記録を見ると大雪の確率も高かったようです。

Photo 越の国は北から越後、越中、越前(加賀を含む)と続きますが、古来冬場は雪に閉ざされる地域でした。京都に近い越前は、中世以降近世には歴史上も重要地域となり、発展してきました。戦国時代には朝倉氏が守護代として一乗谷を発展させ、信長が進出してからは柴田勝家が北之庄(福井市)に城を築きました。

その柴田勝家、信長の武将としては最も古くナンバーワンの地位にありましたが、秀吉や光秀に比べるとやや影が薄い存在かも知れません。最後まで織田家に尽くしきり、誠実そのものであった勝家ですが、「勝ち組」の秀吉に対して「負け組」になってしまったことが、その存在を小さくさせているのかも知れません。

その勝家、実は生年がよく分かりません。大永二年(1522年)生まれというのが定説になっていますが、他にも数説あるようです。死んだ(自害)のは明確で、天正十一年(1583年)の4月24日です。ですから60歳前後であったと推察されますが、北之庄城に爆薬を仕掛け火をかけましたので、遺骸も灰になりました。

最期の時の正妻は、信長の妹であるお市の方でしたが、その以前に妻がいたのかどうかも定かではありません。実子はなく養子が2人いたようです。勝豊と勝政と伝えられていますが、2人とも勝家の姉の子であったようです。

その勝家ですが、最初は信長に敵対していました。信長の実弟である勘十郎信勝(信行ともいう)に家老として仕え、織田家の跡取りとして信勝を推す立場であったわけです。実際に信長と戦いますが、その将器を見抜き信勝を見限って信長に走ります。

それから死ぬまで「織田家一筋」に生きた人生でした。歴史上はそんな役割や評価をおわされた、悲運の武将と言えるのではないでしょうか。あるいは、不器用な人生だったのかもしれませんね。

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