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もし光秀に歴史のイフがあったならば

光秀が本能寺に信長を襲い、さらに二条城の信忠(信長の長男)を屠ったのが6月2日。そして山崎合戦で秀吉に敗れ、小栗栖で土民に襲撃されて落命したと伝えられるのが13日です。その間が11ないし12日。世に「三日天下」と呼ばれますが、10日余の天下であったと言えるわけです。

その間に光秀はそれなりの手を打っています。朝廷への働きかけや寄進はもちろん、居城である坂本城周辺の統御、信長の拠点だった安土城の接収、そして見方になりそうな武将たちへの書状発送など、短い時間の中で打つ手はしっかり打っています。

Aketimituhide そして朝廷や公家との関係確立、京都市中の治安などには成果を上げています。また、信長とは対立関係にあると思われる宗教機関とも、少なくとも悪い関係にはなっていません。武将たちへの働きかけは、まだ様子見ということもあったでしょうが、時間が解決してくれる可能性はありました。

当時はまだ戦国の名残、江戸時代に入ってからのように「主君に忠誠」という道徳は、まだ確立されてはいません。もしそうであれば、織田の天下を奪った秀吉こそ非難されるべきでしょう。秀吉は、信長の愛妾(信孝の母)を磔にしています。自ら手を下したわけではなくても、信孝を謀殺し、信雄を追放しています。

本能寺の乱の頃、京都周辺には光秀軍以外、大軍はありません。四国へ渡る信孝と丹羽長秀軍は兵の集結前に、その多くが逃散してしまっていました。つまり、光秀は絶好チャンスをものにしており、光秀と親しかった武将たちもその気になれば、味方になる可能性が高かったはずです。

しかし、意外性を持った男が立ちはだかり、この有利な条件を一気に覆してしまいました。それが秀吉であり、「中国大返し」と言われる京都へのリターンは、世の常識をはるかに超えるものだったといえるわけです。

もし秀吉が大返しできず、光秀に多くの時間が与えられていたら。歴史にイフはありませんが、その後の歴史書の内容は大きく変わっていたかもしれませんね。

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