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私と阪急電車 そのかかわり史

昨日からの短い遠征、長岡と大阪・神戸の往復ですが、当初は北陸回り(長岡-上越妙高-金沢-大阪)の往復を予定していました。しかし低気圧の発達による強い冬型気圧配置で、暴風の影響を受け信越本線の海岸区間が運転見合わせになり、急遽東京経由・新幹線利用に変更でした。明日の帰り道は、大丈夫そうです。

 
さて、標題のことですが、その関わりは実に60年近くにもなります。私は大阪市内の天王寺区(の病院)で生まれたのですが、育ったのは旭区の社宅で、近くを大阪市電が走り、淀川の河原には護岸工事のトロッコを牽くSLが走り、それを眺めて幼少時を育ちました。その頃から早くも「鉄」の片鱗が見え始めていたようです。

4歳の時に親の転勤もあって、新しい社宅に引っ越しました。引っ越し先は同じ大阪市内でT_10120069 すが、東淀川区(現在は淀川区)の十三で、阪急電車の十三駅から歩いて5分くらいのところ、淀川の堤防に上がれば複線の阪急電車が見られました。当時はまだ現在の京都線(実際には宝塚線の線増)はなかったのです。

こうして阪急電車が身近になり、マルーンカラーに惹かれていったわけです。沿線には箕面や宝塚、六甲、仁川、そして京都・嵐山などの観光地も多く、両親に連れられて阪急電車に乗って出かけました。もちろん先頭車両の運転台が見える場所に張り付き、スピードに酔いしれていました。多分すでに100km/Hを越えていたはずです。

神戸線810系や京都線710系強馬力の吊掛駆動車、また京都線のデイ100系の重厚でクラシカルなスタイルに魅了されました。それに比べると当時の宝塚線は、急カーブも多くて車両も小型や古強者が多く、ちょっと見劣りしていました。

中学校卒業までは十三に住んでいましたが、高校では郊外に自宅が新築されて、電車通学になりました。あこがれのデイ100急行での通学が実現したのです。とはいえ、実は家も学校も国鉄駅に近く、2年間は国鉄で通い、3年生になってようやく京都線での通学になりました。

当時は今のようにスマホで写真をというわけにはいきません。カメラを持って通学することもできませんし、何しろクラブ活動(陸上競技)に熱を入れていましたので、乗り鉄は毎日やっていても撮り鉄はほとんどなしでした。

それでも毎日が阪急電車でしたから、当然の如く阪急ファンになり、今に至っているわけです。母の死で、9月に大阪の拠点にしていたマンションを手放し、阪急電車に乗る機会も少なくなってきました。それでも毎月神戸に来ていますので、いつもマルーンの電車を目にできます。

吊掛車は姿を消し、新性能車も初期のものはなくなり、2000系や3000系も多くが消えていきましたが、伝統のマルーン色はこれからも守られていくことでしょう。故に私の阪急ファンもずうっと続いていくことでしょう。

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