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ちまたで語られている桶狭間合戦の虚々実々

桶狭間の戦い、あるいは桶狭間合戦は歴史の教科書にも載っているし、歴史の転換点といった扱いで著名である。しかし、その内容については諸説があって、詳細をきちんと語れる人は少ない。また、「桶狭間合戦の跡」も実は1カ所ではない。

桶狭間合戦は永禄3年というから西暦では1560年、信長26歳の出来事である。相手は、駿河と遠江、三河を治める大大名の今川義元、率いる兵もこれまた諸説あって2万5千とも3万とも言い、ハッキリしない。合戦の(今川方の)目的も、上洛して天下に号令するためだとか言われていたが、これはほとんど否定されている。

また、対する信長軍もどれだけの兵力だったのか、2千人から4千人くらいまで諸説あっPhoto て、こちらも明確ではない。信長の傍に仕えていた太田牛一が書いた「信長公記」が、写本だがほぼ完全な形で見つかり、解明が進んではいるが、合戦から50年くらい経ってから記憶とメモを頼りに書いたものだから、すべてが正確とも言えないだろう。

さらには、この戦いが奇襲戦であり、桶狭間という谷間に休んでいた義元を、山道を迂回してきた信長軍が、「逆落とし」のように攻め込んだとか、当時は梅雨時で豪雨あるいは激しいにわか雨が降っていて、その雨に紛れて奇襲したとか、とにかく憶測論が渦巻いている。何しろ、迂回急襲説は戦前の陸軍が編纂した戦史資料なので、権威があったわけだ。

しかし、これらの説の多くは現在は否定されている。今川軍は上洛が目的ではなく、尾張の国境を侵略し信長を封じ込め、あわよくば併合しようとしたと言われる。第一、3万足らずの兵力で尾張と戦い勝ったところで、その北には大国・美濃があり、さらに京都への道筋には近江がある。京都に行きつく前に兵が枯渇してしまいそうだ。

迂回でなく、当時のメイン道路・鎌倉街道を真っ直ぐに南下し、そこから桶狭間に向かったことは「信長公記」に明記してある。桶狭間あるいは田楽狭間も険しい谷間ではなくなだらかな丘陵で、義元が本陣を置いたのも「桶狭間山の中腹上の方」と言われる。

となると信長軍は「逆落としに攻めた」のではなく、逆に下から上に攻め込んだことになる。これは圧倒的に攻める側が不利で、守る側が有利であるはずだ。しかし、義元の本陣は崩壊して総崩れになり、義元自身も首を打たれた。その辺りを、一つずつ実際の現地を見た目で検証してみることにしよう(続く)。

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