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今川義元は決して凡愚な武将ではなかった

さて今日のひとりごとは、前回に続いて信長の桶狭間です。

桶狭間あるいは田楽狭間と呼ばれるところが、名前からくる険しい谷間のイメージではなく、ごく平凡な丘陵だということは述べました。また、今川義元が輿をろしたのは谷あいの底ではなく、丘陵地(桶狭間山)の中腹より上だったことも事実のようです。

講談や時代劇では、義元というと愚将のように描かれますが、決してそうではありません。Photo いささか肥満体で馬に乗れない体躯ではあり、京文化へのあこがれを持ち、お歯黒を入れていたことは事実ですが、戦国大名としては有能な武将でもあります。実力で今川家の跡取りとなり、戦場を駆け巡り、そして駿河・遠江の国づくりに力を尽くしています。

その義元が手抜かりをすることはないでしょう。おそらく2万5千の今川軍の内、桶狭間周辺に陣取ったのは6千くらいの兵だと思われますが、斥候をはじめ警備も厳重だったでしょう。よく言われるように、織田軍の「情報将校」だった梁田政綱率いる諜報部隊や、野武士や土豪をつかった情報集めが功を奏したか、それも後世の作り話の感が強いですね。

しかし、信長自身あるいはその近習たちが、小さい頃から領内の野山を駆けまわり、地勢にっも精通していたことは十分に考えられます。また、土地の人たちとも交流はあったかも知れません。領外からやってきている今川軍より、その辺りは有利だったでしょう。

しかも時は梅雨時であり、合戦の少し前からにわか雨が降り出し、合戦時にはかなり強い降りになっていたようです。もっとも、講談にいわれるように大雨で進軍が見えなくなるくらいだったとは思えません。そんな豪雨であれば、道は川の如くなってしまい、行軍ができない状況になってしまいます。

ただ、雨によって今川軍の警戒態勢が緩んだ可能性はあります。「この大雨では敵もやって来るまい」という油断です。自分たちもそれまでの蒸し暑さに休憩を取り、雨によって少し涼しさを感じたでしょうから、気の緩みが出ても不思議ではありません。その心の隙を信長軍2千余が突いたと言えます。

では次回は、今川義元の最期にアプローチしてみましょう。

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