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脳力開発のすすめ

教育というと、私たちは真っ先に学校における教育を頭に思い浮かべます。企業の教育も同じイメージで、いろいろな知識を覚えさせたり、技能を身に付けたりすることが主流になっています。

ですから学校では、特に知識をたくさん頭に詰め込める人間が「あいつは頭が良い」と言われ、試験で高い点を取っている生徒が評価されます。そのことがそのまま企業に持ち込まれますが、知識がいくらたくさんあっても、例えば現実には売上を10倍にすることはなかなかできません。

また、どこかで誰かが成功したノウハウを書物やインターネットで知り、それを鵜呑みにして自社でやってみようと議論したり、提案したりするのだがうまくいかない。

人間が力を発揮するというのは、実は「手と足と口を使う」ことに他なりません。それをどう動かすかの指令は脳(大脳)から出ますから、力の発揮の源泉は「脳の使い方」ということになります。これを城野宏さんは脳力開発と呼んだわけです。

人間は、脳の使い方が良ければこれまでの2倍も3倍も、時には10倍ものことを同じ時間でやってしまえるようになります。つまり、これまではできないと思い込んでいたことでも、できるようになってしまうのです。

話を元に戻すと、いくら知識や技能が向上しても、脳の使い方すなわち手と足と口の使い方が従来のままでは、アウトプットされる結果も元の通りにしかならないのです。企業でも知識教育やQC教育に時間をかけても、大した効果が得られないのは当然です。

例えば売上を10倍にするにはお客様を10倍にすれば良い、といくら頭で分かっていてもダメなのです。1人のお客様を10人に増やすには100人に会えばよいと分かっているのなら、それを実行しなければなりません。

足を100人の元に運び、口を使って話をし、手を使って資料をこしらえるのです。なあんだそんなことか、分かっているよ。でも、やってみなければ。

脳力開発セミナーは、この誰でも分かっている当たり前のことを確認し、自らに意識付けをするという研修なのです。意識付けをして、今日今すぐから実行する、手と足と口を動かすということなのです。セミナーの1~2日間で終わるのではなく、そこから日常がスタートするのです。

※脳力開発セミナーについての詳細や公開スケジュールは、ホームページをご覧下さい。

http://www2.atpages.jp/vanken/index

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コメント

何事につけても新しがり屋の日本人が、時代遅れの精神生活を送っているのはどうしたわけか。

日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、意思を恣意と間違って解釈することになる。
すると、以下のようなことが起こる。

西洋文化の輸入も、意思がなければ支障をきたす。
意思の自由は考えられるが、恣意の自由は考えられない。
恣意の自由は、<自由のはき違え> となり、自由主義の普及も難しい。
意思は自由主義・個人主義の友人であり、恣意は利己主義は不自由主義の友人である。
不自由を常と思えば不足なしか。

政治指導者の意思決定はなく、その恣意決定は受け入れ難い。
意思の表明は成り立つが、恣意の表明は成り立たない。
日本人の声明発表はうつろに響く。その形式的な声明には、実行の意思がないからである。
そして、きれい事というか、空理空論には現実対応策が欠落している。ああ、むなしい。

意思があれば、罪もある。
殺意があれば、殺人罪である。
殺意がなければ、たとえ人は死んでも、死刑執行人は罪に問われることはない。

日本人には意思がない。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には、時制がない。

意思薄弱とも思える日本人の社会では、意思を確かめることは難しい。
人々は個人の意思を確かめるこなく、個人の恣意に関する察しに専念する。  
察しにたけた人物は、思いやりの深い人間として信頼されている。
だから、裁判員になることについて、日本人には多大な精神的抵抗がある。
罪の意識のない社会では、人々は罪を裁くことを望まない。<責任者を出すな> と叫ぶ。

日本人には、意思 (will) はないが、恣意 (self-will) がある。
成案はないが、腹案がある。
意思・成案を表すのには、文章が必要である。相手がその矛盾を指摘することもできる。
だが、恣意 (私意・我儘・身勝手)・腹案には、文章は必要ない。
恣意的な人間は、言語に不自由をしている子供・アニマル同然である。大和魂の持ち主のようなものか。ど根性か。

日本人が子供に見えるのはこの時である。
周囲のものが指導者の意思を察するのである。ただ意向というか、はっきりしないものを察するのである。
政治家と公設秘書のようなものか。一致団結して阿吽の呼吸でやる。
俺の目をみろ 何んにもいうな 男同志の 腹のうち。腹案がある。共謀関係の立証は難しい。
察しは他人の勝手な解釈であって、いざ罪のありかを定める議論になれば、それでは証拠不十分となる。
意思の存在を認めることのない社会で、意思の有無を確認することは難しい。

腹案の内容は、腹を割って見せなくては知られない。隠ぺい体質の産物である。
それには談合が必要である。小言、独り言の類が語られる。
内容は、決して公言・宣言としては表明されることはない。

恣意を文章にすることは、英米人はやらない。
理性を失うことは、恥ずかしいことだからである。
やれば、周りの者から嘲笑される。
彼らは、'Shame on you!' (恥を知れ) と言って、相手をしかりつける。
だが、これを日本人はやる。この種の恥は、日本人にはない。
これを '本心をさらけ出す' と言い、内々で甘えさせてもらうのである。
相手は、'真意は何か' と尋ねる。
この行為が英米人の日本人に関する不思議である。

恣意的な人間は、滅私奉公により調教された。わが国の伝統的な人間教育は、序列人間を作ることである。
意思を認めることのない社会での責任者探しは難しい。無責任な社会では、それ特有の犠牲者を出さなくてはならない。
だから、日本人は恣意の理不尽に耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで生活する必要があると教えられている。

意思があれば、その内容も明らかにすることができる。
意思の内容に賛同して、協力者も現れる。
恣意であれば、その内容も明らかにすることがでない。
恣意は誰もが嫌うので、協力者が現れることもない。
日本人は、戦争のときでさえ、絶対的な権力者を作ることはなかった。

文章が無くては、議論は始まらない。
無理が通れば、道理が引っ込む。だから、問答無用である。
上下関係で決着をつける勝負の世界である。猿山のサルと同じかな。
自分の(恣)意のままにならぬ相手を切って捨てるところが恐ろしい。

世俗的なものの上下を知らなければ、礼儀正しい日本人になることも難しい。
日本人の礼儀作法は、序列差法だからである。序列なきところに礼儀なし。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

投稿: noga | 2011年6月25日 (土) 02時16分

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