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あの日あの時

(ミクシィと重複書き込み)
あの日は、自分が主催する「脳力開発・戦略行動学」セミナーの2日目講習が終わった直後だった。

少し予定より早めに終わって、参加者の一人であるSさんを長岡駅まで送った後、図書館に返却本を持って行った。いつもなら新しい本を借りて帰るところだが、TSUTAYAにもよって帰るかと思いそのまま図書館を出た。

駐車場で、これまた何となく「やっぱり寄り道はやめて帰ろう」とそのまま家に直行した。別に予感があったわけではない。家には休日で戻ってきていた娘が、一人留守番をしてくつろいでいた。

実家に用があって行っていたカミさんが戻ってきたのは、その瞬間のおよそ10分前だった。当日バラバラに行動していた3人が、その瞬間には一緒にいたことは非常に幸運だったと思う。

17時56分大きく長く揺れた、数分後にさらにまた大きく揺れた。その瞬間電気が消え、さらに断続的に余震が襲ってきたのでマンションの7階の我が家を飛び出した。もちろんエレベーターは止まり、暗くなりかけていた階段をおそるおそる下った。

たまたま近くの人がつけていたカーTVが唯一の情報だった(自分の車にもついていたのに瞬間気付かなかった)。携帯電話は10分後には全くつながらなくなった。近くの緑電話で大阪の母親や知人に無事を知らせた。その間にも強い余震が繰り返された。

3人で街中を歩き回りながら、会社が気になった。家族と一緒に車で見に行ったが、その途中はほとんどどこも停電していて信号も消えていた。

ようやく着いた会社ももちろん真っ暗な闇の中、小さな懐中電灯で照らした社屋の中は声も出ないほど惨憺たるモノだった。涙が出そうになったがどうしようもない。建物自体に被害がなさそうなのが唯一の救いだった。その間にも揺れがまた襲ってくる。

とにかく避難するしかない、最終的には新築されて間もない家の近くの小学校に避難先を決めた。気がついたら、ジャンパーは引っかけていたがサンダルに素足だった。避難先の小学校には電気がついていた、明るいことは安心を生むことが分かった。

飲み物とパン類は支給があったが、毛布が届いたのは深夜2時頃だった。とにかく寒かったが、何とか少し眠ることができた。翌朝、炊き出しのおにぎりなどが配られたのは、かなり経ってからだった(予告放送があってから2時間以上経っていた)。それに、全くと言っていいほどその後の新しい情報が入ってこなかった。

翌日も余震は続いていたが、意を決して家に戻ることにした。玄関先には、マンション業者が手配したらしい水や救援物資が山積みにされ、自由に持って行くことができた。これはありがたかった。家に戻ってしばらくしたら突然電気が点いた、嬉しかった。

電気が使えたので、そのまま夜になっても避難所には戻らず、家にいることにした。TV情報もきっちり入ってきたが、情報は混乱していたようだ。時たま(幸運につながって)かかってくる携帯電話での仲間とのやりとり、これほどありがたいものはなかった。

あれから2年、たった2年かとも思える今日この頃だ。

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