2021年に向けてのポリシー

新型コロナウイルス感染で明け暮れる状況の中で、2020年も最後の月を迎えています。


第三波とも言われる感染再拡大は、抑え込みに成功するのかどうかの瀬戸際状態にあります。


寒さが一段と厳しくなる年末、そして年明けに向けて封じ込めが成功するか、正直に言って不安マックスです。


様々な対策が小出しに、しかも場当たり的に出されているような感じが拭えなくて、大丈夫かなと思ってしまいます。


そんな中、夏前頃から各地のMG仲間たちが少しずつセミナー開催を再開してきています。


本家本元の東京MG(西研究所)も、人数を減らしたり感染対策をしっかりとしながら再開しています。


ありがたいことに、私などのところにもMG/CFMG、あるいは脳力開発セミナーの開催リクエストをいただいています。


ぜひやろうという気持ち、やりたいという意欲は満ち満ちています。


緊急事態宣言が終了し、その後感染拡大も下火になった時期には、もしかしたら秋口には再開可能かとも考えました。


正直な気持ちで言えば、周りで仲間がセミナーを開催している姿は羨ましくも感じたこともあります。


その気持ちを抑えて、「まだそのタイミングではない」と自分に言い聞かせてきました。


それは、秋から冬に向かって「感染は再拡大する」という自分なりの確信的判断があったからです。


その通りになっているじゃないかなどと言うつもりはありませんし、怖れすぎることはないとも思っています。


ただ、私にはどうしても「リスクを冒す」気持ちにはならないのです。


もちろん、どんな場合にも「リスク回避100%」とか「危険度ゼロ」などということはありません。


これまで20年以上に亘って様々なセミナーをやってきましたが、常に何らかのリスクは承知しながらやってきました。


ただ、今回の新型コロナウイルス感染という事態は、平時ではなくある意味で『非常時(戦時)』であると理解しています。


非常時には非常時なりの対応が必要で、平時の意識で臨んではいけないということです。


私は、期待していただいている方々には申し訳ありませんが、新たな「平時」ステージを待つことにします。


もしかしたら新たな「平時」ステージ は永遠に来ないのかも知れませんが、そうだとしたら世の中が私を必要とはしないということだということでしょう。


幸いなことに、この非常時にはオンライン・リモートという新しいステージ戦術があります。


オンラインには制約もありますが、逆にこれまで気付かなかった効果要因も多々あることに気付かされています。


制約という壁を越える知恵も、私を支えてくれる仲間たちの熱い想いも後押ししてくれます。


もちろん、「やれる」時がやってきたらまた違うステージに向けて、全身全霊を込めて向かっていきます。


それまで待って下さいとは申しません。でも、待っていただけると嬉しいです。


いつになるのか、少なくとも来春以降になると考えていますので、その時に慌てない準備は今からしっかりしていきます。

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その思いを込めた「新年セミナー」を、オンライン&YouTubeで開催します。


もし、参加して視聴していただければ幸いに存じます。


詳細はフェイスブックなどのSNSや、ヴァンガード経営研究所のホームページに間もなく公開します。


2021年も、皆さんとお目にかかれることを願ってやみません。


健康で、そしてご安全に2020年の有終を迎えられ、新たな2021年に飛び出していきましょう。

『私とMGと経営』こぼれ話(36)

1990年1月の下旬、社長より販社出向の内示がありました。


すでに予告を受けていましたので、あとはどこに行くことになるのかということだけでしたが、


新潟・長岡市の販社((株)トンボ繊維=現在は新潟トンボ(株))と聞いて、少し驚くと共に因縁を感じました。
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それというのも新潟は妻が生まれ育ったところで、地域は違いましたが長岡にも少なからず縁がありました。


販社の経営内容については、経営管理室という仕事がら一応の知識は持っていました。


決算書はもちろん、毎月送られてくる試算表にも目を通して、常務会に提出する資料作りも部下に指示していました。


数年前から赤字を計上し、「財務上の膿」を出すために「出血手術」を行ったこと、


それによって創業社長等が退陣されて、当時の現社長が販社社長を兼任し、本社からの出向が始まったこと。


その方(販社専務)が財務の立て直しを2年半くらい行なわれて、親会社からの支援も行われていたこと。


支援の内容も、毎年交わされる「契約書」(経営管理室で作成)によって概要は確認していました。


しかし、当時の私はまだ表面に現れていることだけしか知らず、とくに損益計算書(PL)の数字に目を奪われていました。


実質経営者の派遣出向による再建、確かに単年度利益が出ていて成功途上にあることをうかがわせる内容でした。


販社会議における専務の報告でも、うまくいっている旨が語られ、私もそれを信じて疑いませんでした。


無知ということは怖いものですね。


知らないことが多すぎましたし、すでに出ている資料の中からも実は読み取ることができたのです。


しかし、当時の私はまだPLだけに目を奪われていて、数字が語っている事実には気付かなかったのです。


ましてや、そういう一連の事態がいつからどのようにして起こって今に至るのかということなどは、


おぼろげなことは聞いていましたが、殆ど理解していないに等しかったのです。


それを知るだけの時間もないままに、現地での住まい探しや仕事の引継などに追われるばかりでした。

『私とMGと経営』こぼれ話(35)

1990年(平成2年)の新年は、一般参賀の儀が中止された年の幕開けとなりました。


因みに来年2021年も中止が検討されているということで、31年ぶりの中止になるやも知れません。


前回は昭和天皇崩御から1年崩御から1年ということでしたが、今回は新型コロナウイルス感染(再拡大)の影響です。


さて、その90年が訪れる前年の暮れに、実は当時の社長から「まだ決まっていないが」という話をいただきました。

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それは、本社勤務(企画部門=開発部そして経営管理室)も14年とかなり永くなったので、そろそろ転出もどうかという打診でした。


現業部門(営業部あるいは生産部)にでしょうかとの問いかけには、外に出てもらうかも知れないとの返答。


その時には、支店・営業所(東京か福岡)あたりかとも思ったのですが、


選択肢としては直営系の販売会社(北海道か大阪)あたりも可能性があることを感じていました。


本社の外に出る場合の慣例として2月には内示があるはずでしたので、それまでは「まな板の鯉」でした。


新年はまず東京・木原商店さんでMG、その後すぐに高松・瀬戸塾の新年MGに参加して幕が開きました。


さらに1月中旬に名古屋に遠征、初めて「愛環塾MG」に参加しました。


愛環塾の3人(岡田さん、水野さん、加藤さん)とは88年頃からご縁がありましたが、主催MGへの参加は初めてでした。


その後の頻繁なMG交流につながるきっかけになったのがこのMGでした。


また、西先生からルール説明を始めとして度々「指名」を受けるきっかけとなったMGでもありました。


そうこうしている内に、2月を待たずして「出向の内示」を受けました。


支店・営業所か直営の販社という読みは外れ、意外な出向先が内示されました。


それが新潟県長岡市に所在するトンボ繊維、実質子会社ではありましたが予想していなかった販社名でした。


これが私の人生を大きく変えていくことになろうとは、その時には全く予想もしていませんでした。

『私とMGと経営』こぼれ話(34)

親会社時代の1989年秋、社内MGの帰り道、駅までの短い時間の間に「不良在庫」の話が盛り上がりました。


切り出したのは三福水産(当時)社長だった河村公樹さん(故人)、西先生もすぐに応じられた。


会社盤の上に大量に在庫を積むのは良いのだろうか、という問題提起から始まりました。


駅までの間では十分な話のにつまりまではいかず、「宿題」とすることになりました。


私自身も親会社や販売会社の在庫問題では頭を悩ましていましたので、考える仲間に加えていただきました。
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それから何度か河村さんからは直接電話をいただきました。


当時のことですから携帯ではありません、出張中は連絡をもらって公衆電話から100円玉を積み上げておいて電話したことも。


こんなことを考えたのだがどうだろうかという内容でしたが、当然ながら西先生にもお電話をされていたようです。


ならばやってみようかということで、最初は確か「会社盤の上に●●個以上ある時」だったと記憶しています。


はみ出した数は全て不良在庫ということになるのですが、案の定不満を漏らす声が出てきました。


そこから色々と試行錯誤をした中で、半年後くらいになって現在のリスクカードができましたが、これは後日談。


リスクカードを引いた際に、会社盤の上に20個を超える製品・仕掛品・材料があれば、


超えたものが「不良在庫」となってストッカーに戻し、保険金(現在は1個10円)を受け取る。


河村さんと話し合っていたこの時には、ゲーム上の不良在庫としか意識がありませんでしたが、


実際の会社経営において不良在庫の酷さに直面しようとは、その時には予測もしていませんでした。


そしてそんな中で、いよいよ運命の1990年を迎えました。

社名に残る鉄道線の残影

かつて戦中戦後の新潟県には、いくつかの私営鉄道がありました。


新潟電鉄(→新潟交通)、長岡鉄道・栃尾鉄道(→越後交通)、頸城鉄道、そして蒲原鉄道。


現在でも鉄道社名がそのまま残っているのが蒲原鉄道です。


なお現在は、3セク鉄道として北越急行(ほくほく線)と、えちごトキめき鉄道があります。

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1999年に最後に残った区間(村松-五泉)が廃線になった蒲原鉄道、最初の開業は1930年(昭和5年)でした。


最盛期には信越本線の加茂駅から、地域の中心・村松駅を経て、磐越西線の五泉駅まで約22kmの路線でした。


村松は3万石の城下町で、陸軍歩兵30連隊が駐屯する軍都でもありました。


途中の山中にはスキー場などもあって季節的な需要はあり、貨物列車も設定されていましたが、


沿線人口が希薄な加茂駅ー村松駅間は1985年に廃止され、僅か4km余の短区間だけが残りました。
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最後に残った区間はそれなりに需要もありましたが、朝の通勤時を除くと1両だけのワンマン運転でした。


磐越西線の列車に接続して、新津や新潟に通勤・通学する人も少なくありませんでしたが、


村松からは新潟市内の中心部への直通高速バスも走り、乗換が必要なローカル鉄道では太刀打ちできなくなっていました。


さて廃止の直前に最後の乗り鉄に出かけましたが、五泉駅を出ると右に大きくカーブした後は、


村松駅までほぼ一直線に、道路と田んぼの間をのんびりと左右に車体を揺らしながら進んでいきました。


村松駅は車庫もあり、すでに廃車されたものも含めてたくさんの車両が並び、すぐ近くでの撮影もOKでした。


現在も駅跡などは残っていますし、また幸いなことに多くの車両が各地に保存されているのは嬉しい限りです。


落ち着いたら今一度、それらを訪ねてみようと思っています。

B/Sが読めますか(9)

いよいよBS左側の資産、上段にある流動在庫の中でもなかなか「厄介な」在庫(棚卸資産)についてのお話です。


棚卸資産の中身は、商品・製品、半製品、仕掛品、材料・原材料、貯蔵品といったものです。


商品とは、販売業でそのまま販売できるもの(仕入れたもの)です。


製品とは、製造業で自社製造して出来上がっもの、つまり売れる状態のものです。


半製品は完成するちょっと前の製品ですが、そのままでも販売可能なものを指し、科目上は製品に含めます


似たようなものが仕掛品ですが、こちらは製造途中のもので製品になる手前のもので、工場内にあります。


材料・原材料とは、製造するために仕入れた(調達した)原料あるいは材料のことです。


貯蔵品とは、事務用消耗品や消耗工具、燃料などでまだ使っていないもの、販促品や包装資材など、


あるいは切手や印紙で、今後使う予定で残っているものも貯蔵品に含めます。


これらは棚卸によって金額(評価額)を確定します。


棚卸には、帳簿上(最近はコンピュータ上)の棚卸と実地棚卸とがあります。


実際にあるものを数える実地棚卸(実棚)が、正しい決算するためには絶対に必要となります。

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業種業態にもよりますが、商品の回転が早いところでは少なくとも毎日か毎週棚卸を行うことが望ましいでしょう。


かつての私の会社は季節変動が大きく、商品回転も平均で4回転くらいでしたから、半期に1回の実地棚卸でした。


月次決算(月次残高試算表)については、コンピュータ管理の在庫数値でやっていました。


誤差は承知ですが、実地棚卸には時間がかかり(当社では1日半~2日)ますから、やむを得ないところでした。


ですから、実地棚卸をするとどうしても誤差(差異)が発生しますので、


差異のある商品については棚卸をやり直したり、最終的には現物主義で「洗い替え」をしていました。


棚卸資産だけでなく、資産の残高数値を正確に把握しないと決算自体が正しいものになりません。


つまり利益そのものが信頼できる数字にならないことになっては、経営が成り立ちませんから、


とくに期末の残高合わせ、実地棚卸は慎重の上にも慎重に行うことが大切です。

『私とMGと経営』こぼれ話(33)

親会社時代の秋、西先生をお迎えしての社内MGは1989年11月22-23日に開催しました。


会社のMGによる学びを導入されたY専務の後押しで実現しました、会場は市内の岡山青年館。


しかも私のたっての希望も通り、ゲストとして下関の三福水産(当時)、河村社長をお招きすることができました。


初日3期と夕食が終了したあとに、1時間ばかりの講義をお願いしました。


実際に会社で使われていた、マイツールによるマトリックス会計表をそのままズバリ見せていただきました。


月次決算だけでなく、日々の決算や週次決算にも使われているということで、私にはとてつもない驚きでした。


ただ、親会社の社員(幹部クラス)にはレベルが高すぎた話だったように感じました。


MG、STRAC(戦略会計)を会社の中に落とし込んでしっかり使われていることだけは、参加者にも伝わったようでした。


また、9×9の大きなマンダラによる経営計画についてもお話しいただき、


これなどはやがて販社に出向した時に、私なりに応用する形で使わせていただきました。


もちろん、この時には自分自身が販社に出向することなど、微塵にも考えていませんでしたが。


河村社長の「迫力ある」MGも、参加者の皆さんの度肝を抜いたようでした。
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なにしろ青チップをガンガン積み増ししながら、ひたすら20円のプライスカードで突き進まれるのですから。


なお、この時には西先生にフルインストをお願いしたのですが、ルール説明など一部私に振っていただきました。


開発者のそばでインスト代行をやることなど、足が震え、口の中がカラカラになったことを覚えています。


もう一つ大きな出来事がありました。


それは西先生と河村社長、そして私の3人が会場や移動する車の中で話し合ったことで、


これが後に『不良在庫ルール』として、形になることになるのでした。


「冷蔵のタコも不良在庫化するんだよ」とおっしゃった、河村さんのドスのきいた声が脳裏に刻まれています。

磐越西線の旅路

新潟県は何地方か?


学生時代、地理の授業では中部地方と習いましたが、実際に新潟に住んでいるとちょっと違和感を感じます。


ニュースなどでも呼ばれ方はまちまちで、通常は北陸地方ということで一括されています。


それでも関東甲信越と括られることも多く、気象面では東北南部に含まれているような感じもあります。


ちなみに電気は東北電力で、ガスは北陸ガス、前者については50HZが主体ですが60HZの地域もあります。


それはそれとして東北南部というくくりで見ると、東北を東西に結ぶ鉄道の南端が磐越線です。


磐越線とは、磐城の国と越後国を結ぶということですが、鉄道建設の頃には岩越線とも呼ばれていたようです。


途中の郡山駅(福島県)で分割され、東は磐越東線で西が磐越西線であり相互直通列車はありません。


こちらも会津若松・喜多方で東西に分かれ、郡山ー会津若松ー喜多方は電化されていますが、喜多方ー新津は非電化。

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現在はSLの「ばんえつ物語」号が走る路線として知られていますが、新潟寄りには優等列車の設定はありません。


僅かに快速「あがの」が走っていますが、普通列車と同じ一般気動車による運転です。


かつては上野からの直通急行「いいで」が58系気動車・グリーン車込みで走っていたのを記憶しています。


「あがの」も急行で、仙台ー新潟間の運転で米坂線経由の「あさひ」(後に「べにばな」)と競っていました。


現在は高速バスが新潟から、会津若松や仙台方面との往復では主流になっています。


新潟(新津)側では新型の電気式気動車GV-E400が登場し、


かつてはDD51牽引客車列車がのんびり走った県境の峠越えも、スイスイと走り抜いて隔世の感があります。
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新潟駅に直通する列車も多く、新津を過ぎると阿賀野川に沿って県境に向かいます。


今はちょうど紅葉の季節、水面に映る紅葉そして峡谷美が旅路の心を和ませてくれます。


そして冬景色もこたえられない魅力がありますし、新潟県内では朝日連山の雪景色、


会津に近づくと磐梯山がその偉容を表してきます。早く佳い旅をしたいですね。

B/Sが読めますか(8)

前回(先週)、コラムの最後の方でよい税理士さん(税理士事務所)を選ぼうと書きました。


「よい税理士」さんというといささか曖昧なので、具体的な条件を記しておきましょう。


ただしあくまで私の主観・私感で、いささか思い込みもあるかも知れませんので念のため(悪しからず)。


その前にまず、経営者の方に知っておいてほしいのは、税理士さんの主たる仕事は「税務会計」だということです。


これが何かというと、平たくいってしまえば(企業が)税金を正しく払うための会計事務をしていただくということです。


そして税務会計と、経営者が知りたい会計情報の間には差異、あるいはスキマがあるということです。


ですから、税理士さんはあなたの会社の「経営アドバイザー」や「コンサルタント」ではありません。


だから「経営コンサルタントの私にお任せを」ナンテことは申しませんよ。


言いたいことは、経営も分かる、経営についてもアドバイスしていただける税理士さんにお願いすることです。


どうやったら税金を払わんでも済むかだけに血道を上げてくれる方には、大事な会社の命運を任せないように。


とまぁそのくらいにしておいて、肝心の話をしなければなりませんね。

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売掛金ですが、売上債権にはもう一つ「受取手形」という科目があります。


その殆どは約束手形(為替手形もありますが使い方は現在はほぼ同じ)ですが、手形取引の多い会社は、


しっかり管理しないと手痛い目に遭いますし、とくに裏書きで支払にも使っている場合には最大のご注意を。


約束手形は、記入してある期日に額面金額を「現金で支払います」という約束を記した紙ですが、


文字通りの紙切れになってしまうリスクを常に伴っている、ということを忘れないでほしいのです。


営業マンの中には、取引先から手形をいただいてきて「集金が完了」したと思っているとしたら大間違い。


売掛金という科目が受取手形という別科目にスライドしただけで、売上債権のくくりから抜け出てはいないのですから。


故・一倉定先生は、「手形は切るな、手形はもらうな」と口を酸っぱくして言われていました。


手形を切るなということについては、またいずれ触れることになるはずです。


とにかく、キャッシュフローすなわち資金繰りについてリスクになる要素は、極力なくしていきましょう。


では次回からは、もう一つキャッシュフローに強い影響を与える「在庫」について触れていきます。

『私とMGと経営』こぼれ話(32)

MG100期に到達までは、最初のMG(1987年9月)から1年と3ヶ月半くらいでした。


さらに200期に到達が1990年の3月ですから1年と2ヶ月、ちょっとペースが上がりました。


この間はいろんなところへ出かけて行きました。


会社が認めてくれていたとはいえ、全部が経費で認められるわけではありませんでした。


販社に出向以後はまた後に触れますが、参加費のだいたい半分くらいは自己負担で参加していました。


当時は課長職(経営管理室長)でしたが、正直言いましてそれほど高い給料でもなく。


子供の教育費にも、また新築の家のローン支払などもあり、小遣いはそんなに多くはありません。


旅費については出張に合わせて参加できるMGを探して出かけていましたが、


当然ながら参加費の他に宿泊費なども、自己負担でやらなければならないことがありました。


可能な場合は夜行列車や夜行バスなどを使い、食費も可能な限り節約して家計に負担をかけない工夫はしていました。


こうして出かけたところは、神戸や姫路、下関の他に名古屋、佐世保、東京、徳島、高松、新潟(十日町)など各地に亘り、


200期を過ぎてからのことですが、西先生から「全国銘柄」と呼んでいただけるようになりました。


その頃にはMGのゲームの方も強くなり、というかその頃が一番「怖いもの知らず」だったのでしょう、


出るMGごとに表彰状がいただけるようになり、その内の2、3回に1回は最優秀でした。


またこれだけは負けられないということで、決算順位はほぼほぼトップだったように思います。

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その間、会社内の部署別MG研修は継続されることになり、インストもようやく板に付いてきました。


分からないことに気が付くと、MGジュニアに参加して西先生や先輩シーガルから話が聞けました。


そして大きなエポックが実現することになりました、西先生を招いての社内MG研修の開催でした。


1989年11月22-23日、本社、支店営業所の部課長クラスの主力メンバーを集めて5卓のMGになりました。

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